山荘のご主人/鍋割山

山荘のご主人/鍋割山

具体的な山の名前をふせて綴ろうか、そもそもこのエピソードを表に出すのをやめようか、しばし迷った。けれども、私の山歴の中で5本の指に入るくらいの強烈なネタなので、思い切って書くことにした。ありのままを忠実に記すが、決して誹謗中傷ではないことをご理解いただきたい。ある意味、この山荘のご主人に対して、尊敬かつ畏怖の念を込めてこの話を書き記すことにする。

丹沢の鍋割山には3回登った。山頂に建つ鍋割山荘の鍋焼きうどんは、この山の名物だ。ハイカーの間ではもっぱら有名で、週末にはこの鍋焼きうどんを食べるための長蛇の列ができるという。私が愛読している某山のごはん系漫画にも登場していた。

蓼科山に一人で山荘泊して以来、山のおもしろさに目覚めた私は、練習と称して日帰りで登れるさまざまな山にチャレンジしていた。丹沢はアクセスがよく日帰りできる名山が連なっていて、登りがいのある塔ノ岳には何度か登頂していた。そして今回、鍋焼きうどんを食べるべく、鍋割山に単独で登ろうとしていた。

塔ノ岳へはいつも大倉からの大倉尾根(通称、バカ尾根)を登っていくので、今回は登ったことのない道から行ってみようと、登山口は寄(やどろぎ)にした。小田急の新松田駅からバスで30分ほどだ。平日の月曜とはいえ、大倉に比べて乗客はほとんどいない。というか私一人である。一抹の不安を覚える。
農道や茶畑の間を縫っていくと登山口がある。とてもわかりづらいので注意が必要だ。

久しぶりの登山で、ちょっとうきうきしながら登っていたが、樹林帯の登山道を進んでいる時カメラを構えたら、レンズの先に何か白っぽい小さい虫のようなものがつつーと下りてきて、思わず声を上げた。カメラ本体にくっついているそれを見たら、さらに鳥肌が立った。小さいヒルが、うねうねと体をくねらせている。この時、6月。話には聞いていたが、本当にヒルが多いんだ・・・そう思いつつ、指ピンでおさらばした。

順調に登山道を進んでいく。ほぼ樹林帯で特に展望はないが、この日はお昼に鍋割山荘の名物、鍋焼きうどんを食べる予定だったので荷物は少なく、とても身軽で足取りは軽かった。後半、ものすごい荷物を背負った歩荷の男性を追い抜かした。「こんにちはー」と山のお決まりのあいさつをするも、スルーされる。あれっと思いつつ、まあいいか、とそのまますたすた登っていった。

11時過ぎくらいに、鍋割山の山頂に到着した。さあさっそく鍋焼きうどんをいただこうじゃないの、と小屋をよく見たら、なんと閉まっている。えっ、今日休み?と周りをきょろきょろしてみると、既に山頂でくつろいでいたらしい男性が何人かいて、小屋の入り口の前で呆然と立っている私に声をかけてきた。

「まだ山荘のご主人が来てないよ、途中追い抜かさなかった?」

あっ、あの歩荷の人か。なるほど合点がいった。全然知らずに普通に挨拶してしまった。

と話しているうちに、鍋割山荘のご主人が到着した。入り口の鍵を開けて小屋の中へと入っていくご主人のあとに続き、私もいそいそと中に入ろうとしたその瞬間、「ちょっと入ってこないで!」とぴしゃりとはねつけられた。えっ、入っちゃだめなんですか。

「今着いたばっかりで用意もできてないんだから、まだ入ってこないで!」

すごすごと引き下がる。

山頂にいた男性たちも小屋に入ろうとして同様に「入ってくるな!」と言われていたが、彼らの目的はどうやらスタンプラリー(?)だったようで、「いやいや、このスタンプだけ押させてもらったらすぐ出るから~」などと強引に中に入り、さっさと用事を済ませて去っていった。

スタンプくらいならすぐ済むが、私の最大の目的はこの山荘の名物、鍋焼きうどんである。山友達から、とにかくおいしいと話を聞いていたから、絶対山頂で食べる!と意気込んできたのだ。それを証拠に、ザックの中に入っている非常食は、小さいカップ麺1個。鍋焼きうどんに比べるとあまりにも心もとなかった。鍋焼きうどんを食べに来たのだ、私は!と心の中で叫ぶ。つくづく食い意地が張っていると自分でも思うが、とにかく鍋焼きうどんを食べないとはっきり言ってこの山に来た意味すらない。そう自分に言い聞かせ、入口外のベンチで待つことにした。

山荘に着いた頃から霧雨が降ってきていて、不快極まりない。レインウェアを着て、この日荷物が少ないのでザックに入れていた軽量折りたたみ傘を広げる。それにしても、いつまで待てばいいんだろう。自分の中でリミットを決めなければいけない。この時11時半くらいだったから、12時台でも食べられなかったら、あきらめようと考えていた。携帯の電波も入っておらず、持ってきていた文庫本を広げて辛抱強く待った。

20~30分くらい待っただろうか。思ったよりも早く小屋の入り口が開き、ご主人が顔をのぞかせた。

「鍋焼きうどんが食べたいの?」

「はい!!!」

この時の私はまさに、ご主人様にかまってもらえた子犬そのものだっただろう。

小屋の中に招き入れられ、ようやく待ちに待った鍋焼きうどんにありつけた。霧雨のせいでちょっと肌寒かったので、温かい鍋焼きうどんが体にじわじわと染み入っていく。お、おいしい。しかも具だくさんでボリュームたっぷりだ。少し濃い目の味付けで、体の芯までエネルギーが満ちていく。こんなにおいしい鍋焼きうどんがあるのか・・・つゆも一滴残らず飲み干した。ごちそうさまでした。

その日は月曜で、少し天気が微妙だったせいか、鍋焼きうどんを食べに小屋に来る人はほとんどおらず、ご主人も暇だったのだろうか。丹沢を歩く時の忠告をいくつかしてくれた。

「ヒルは上から降ってくるんじゃなくて、ザックを地面に置いたときにそこからつたってくる」

「一応丹沢にも熊がいるから、一人の時はラジオをつけるとよい」

最初に小屋に入るのを拒絶されたときは、なんと偏屈な人なのかと思っていたが、普通に話してみると案外親切だった。

これが私の鍋割山の最初の思い出だ。

その数か月後に、友人何人かと鍋割山に登る機会があった。もちろんこの日も鍋焼きうどんが目当てだ。大倉登山口から入り、順調に高度を上げて山頂に到着した。この日も、私の鍋割山デビューの時とほとんど同じような天気で、霧雨が降っていた。私たちが山頂に着いたのは13時前くらいで、既に小屋の中でうどんをすする登山客が何人かいた。雨で小屋の中も少し寒く、鍋焼きうどんの湯気があちこちにもわもわと立ちこめている。注文を待っている人たちが前に何人もいて、しかも私たちは5人とやや人数が多かったので少し心配したが、無事に鍋焼きうどんを注文することができた。ほっ。

小屋の中で2度目の鍋焼きうどん。やっぱりおいしい。この前は私一人だったので無我夢中でたいらげたが、今回はうどんをすする友人たちを写真に撮る余裕があった。一人で食べてもおいしいが、みんなで食べるともっとおいしい。私たちは、この日のメインイベント・鍋焼きうどんを満喫していた。

その時、事件は起こった。

私たちがうどんをちょうど食べ終わる頃、年配のグループが小屋の中に入ってきた。最初に入ってきた女性が、下からボランティアで歩荷してきたらしい水を置きながら、鍋焼きうどんを注文しようとした。とその時、小屋のご主人が冷たく言い放ったのだ。「今日はもう終わりだよ!」

言われた女性だけでなく、うどんをすすっていた小屋の中の全員が凍り付いた。

ええー、終わりってどういうことよー!!と女性が抗議している。当たり前だ。きっとこの鍋焼きうどんを食べるのを楽しみに登ってきたのだ。しかも水2Lも歩荷して。後から続いて入ってきた、女性の同行者らしい男性たちも口々に文句を言い出す。

「まだ13時過ぎじゃないか!14時まで注文できるって書いてあるじゃないか、のれんも出てるのに」「草野さん、テレビ出すぎなんだよ!有名になっちゃって、忙しくなってるじゃないか」

テレビの件はあまり関係ないと思うが、彼らがブーイングするのも無理はない。この日は週末明けの月曜だったのだが、土日にかなりの数のうどんが売れたらしい。

「どれだけ重い荷物を運んできてると思ってるんだよ!今日は終わりだよ!飯なんか自分で用意して持ってくればいいんだよ!」

うどんが品切れになったというわけではなく、店じまいにした理由はただの気まぐれらしい。

断られた中高年の方たちがブーブー言いながら小屋を出ていく。うーん。はっきり言って同情する。

カウンターまで土鍋を片づけに持っていったが、とてもじゃないけどご主人に話しかけられる雰囲気ではなかった。残念だ。

というのも、この鍋割山荘のご主人、草野さんと私の父は昔からの知り合いで、正月に帰省した時にそのことを知った。父が所属していた会社のワンダーフォーゲル部が、毎年鍋割山荘で合宿をしていたそうだ。草野さんが結婚された時もお祝い登山と称して皆で登って祝杯をあげたらしい。私が山に登り始めたばかりの時、父に山荘泊するのにおすすめの山小屋はどこか尋ねたら、「鍋割山荘」という答えだったことに納得した。そういえば、“草野さん”という名前、子どもの頃になんか聞き覚えあったんだよな。

父はもう山からは退いているが、山関係の番組は録画して欠かさず見ているらしく、鍋割山荘の鍋焼きうどんが今人気なこともテレビで見て知っていた。「次に草野さんに会ったら、〇〇会社のワンダーフォーゲル部の〇〇がよろしく言ってたって伝えといて」そう父に伝言を託されたので、ぜひその話をしてみたかったのだが・・・

今この話をしたところで、冷たく一蹴されそうなので、あきらめて下山した。下りの道で、友人たちと「鍋焼きうどん食べれてよかったー」と何度も口々に言い合った。あと10分遅かったら私たちも同じ運命だったかもしれない。ひいー。食べれてよかった。

そしてその1か月後、5月に別のメンバーでまた鍋割山に登った。今回のメンツは私、夫、友人の男性2人の計4人。私以外は皆会社員のため、初の土曜日だ。平日であんな事件が起こったのだから、混んでいる土日は一体どんなことになっているのだろうとドキドキしていた。夫や友人たちにも、「鍋焼きうどん食べれないかもしれないから、代わりのごはんを用意しておいて」と念押しした。

山頂に到着した。過去2回とも霧雨の中の登頂だったが、初めての青空だ。鍋割山の山頂ってこんな景色だったのか。前は見えなかった富士山がくっきり見えている。なかなか天晴な展望だ。

山荘に目をやると、「名物 鍋焼きうどん」ののれんが出ている。やはり平日に比べるとかなりの人で、列は小屋の外まで続いていた。私たちも列の最後尾に並んだ。こんなに混んでたら、草野さん不機嫌極まりないのではないだろうか。先月のエピソードを思い出し、余計な心配をする。果たして今回、鍋焼きうどんは食べられるのか。

私たちの番になり、カウンターを見てびっくりした。平日は草野さん一人でまわしていた厨房に、鍋焼きうどんを作るスタッフが何人もいた。土鍋にうどんと具をセットするのはご主人。ポットにお湯を継ぎ足す役。注文を受け、会計をする役。カセットコンロの火加減を調整する役。土鍋を片づけて洗う役。名物うどんを求める客たちを、完全分業で整然とさばきまくっている。土日体制と平日の落差がすごいが、見事な鍋焼きうどん屋システムだった。

無事鍋焼きうどんを注文できた我々は、天気がよかったので外で食べることにした。相変わらずおいしい。けれども、天気がよくてちょっと暑く、前に食べたほどの感動は正直なかった。もしかしたら、やっとの思いで食べられた、というのもおいしさを引き立てる要素なのかもしれない。

そろそろ秋がやってくる。また寒くなったら、あの鍋焼きうどんを食べたくなりそうだ。今度はおそらく平日に登ることになるだろうから、その時は思い切って、山荘のご主人に話しかけてみようと思う。タイミングを見計らいつつ。

 

鍋割山(1,272m)

神奈川県の北西部に位置し、都心からのアクセスもよく、老若男女たくさんのハイカーに愛されている丹沢山系。「神奈川の屋根」とも言われている。丹沢山や塔ノ岳、檜洞丸、蛭ヶ岳などいくつかのピークがあり、ルートも多彩。ブナをはじめとした森深い樹々の緑が楽しめる。
鍋割山の山頂にある鍋割山荘の名物・鍋焼きうどんが、登山者たちの間で大人気。

≪コースタイム≫
寄(やどろぎ)登山口→後沢乗越→鍋割山山頂→後沢乗越→二俣→大倉
歩行時間 寄(やどろぎ)登山口~鍋割山山頂 3時間30分/鍋割山山頂~大倉 3時間
歩行時間 17.6km
最大高低差 1,108m

 

≪アクセス≫

行き:寄(やどろぎ)(トイレあり)帰り:大倉

〇マイカー 東名高速・大井松田ICから国道255号(山北方面)・国道246号(東京方面)を経て、寄入口交差点左折、約10分 寄自然休養村管理センター駐車場
〇電車・バス 小田急線「新松田駅」またはJR御殿場線「松田駅」下車、小田急線「新松田駅」前より富士急行湘南バス「寄(やどりき)」行きで終点「寄」下車、徒歩1分

帰りの大倉は小田急渋沢駅行きのバスが30分に1本の間隔で出ている。