テレビづいていた/蝶ヶ岳
“〇〇づいている”というのは割とあって、やたらと外国人に道を聞かれたり(道案内づいている)、妙に子どもになつかれたり(子どもづいている)、連続して何かに当選したり(当たりづいている→ずっとそうだったらいいのに)、と色々だ。そういう時は奇妙なもので、たいてい連続して同じようなことが起こる。
そして私はあの頃確かに、“テレビづいていた”。
5月。残雪の北アルプス・蝶ヶ岳に友人と出かけた。残雪が美しい穂高連峰を蝶ヶ岳山頂から大パノラマで眺めよう、という算段だ。徳澤園にも泊まってみたい、と2泊3日の山行計画を立てた。
下界では新緑に光あふれる初夏の美しい季節だが、3,000m級の山の上ではまだ冬を少し引きずっている。登山口となる上高地は、春らしくそこら中にニリンソウが咲き乱れて、樹々や草木は若々しい緑に萌えていた。だが、徳澤から長塀(ながかべ)尾根を徐々に登るにつれて、ぐずぐずに溶けかかっている残雪、いわゆる「腐った雪」が現れる。この腐り雪が曲者で、樹木の幹の周りは木の体温で溶けるのが早く、しかし一見して空洞になっているかどうかわからないので、踏み固められた道を慎重に行かないとしょっちゅう踏み抜く。慎重に歩いても踏み抜く。同行した友人は太ももまですっぽり埋まっていた。女性の私たちでも踏み抜くのだから、体重がより重い男性はもっと悲惨だ。途中で会った男性は、「人の足跡は当てにならない!!ここは大丈夫かと思っても結局踏み抜く」とぼやいていた。
私は雪滑りが苦手なので、12本爪アイゼンを付けて歩いたが、友人はノーアイゼンでざくざく登っていた。こういう時、ウィンタースポーツに親しんでいたかどうかで差が出ると思う。私はスノボもスキーもてんでダメなので、雪に慣れている人が少しうらやましい。
蝶ヶ岳途中の小ピーク、長塀山までのコースタイムは通常では4時間弱なのにもかかわらず、この残雪のせいで、1.5倍くらいの時間がかかった。雪が、私たちの時間と体力を容赦なく奪っていく。早朝に出発していたので時間には余裕があったはずが、結局山頂に着いたのは14時半、なんだかんだで結構ぎりぎりになってしまった。まあ何とか無事に登頂できてよかったね、と、山頂に建つ蝶ヶ岳ヒュッテの入り口の引き戸を開けて、中に入ったその時、靴置き場の土間に座り込んでいる女性に目がいった。
ん・・・?どこかで見たことあるような・・・
あ!女優の工藤夕貴だ。ウメッシュのCMに出ていたのを思い出す(古)。
そういえば、徳澤園で誰かがテレビのロケがどうの、工藤夕貴がどうのって話していた気がする。なるほど、ちょうどあのNHKの山のドラマ、「山女日記」の何かの撮影なのだろうか。
私も友人も山荘に着いたばかりでテンションが高く、「握手してください!!」と図々しくもお願いした。工藤さんはとても気さくで、握手にも写真撮影にも応じてくれた。
そのやり取りを横の女性が見ていて、私の友人が着ていたTシャツ(「The Beer After Mountain」と山に登るおじさんがイラストで描かれているすばらしいデザインだ)に食いついた。「このTシャツかわいいですね!!!」友人が「もらったんですよー」と答え、女性が「わー私も欲しい!かわいい~」などと話していると、工藤さんが言った。
「この方は、山女日記の作者の湊かなえさんですよ!」
「・・・えー!」
女優の顔はわかっても作家の顔までは知らなかったので、かなり驚いた。ベストセラー作家はビールのTシャツに食いつくのか。意外である。
「山女日記」はオムニバス式でストーリーが綴られているのだが、主人公たちは槍ヶ岳や白馬岳などに登っているので、著者の湊さんは相当な山好きなのだろうと思っていた。山Tシャツに食いつくあたり、その予想は外れていなかった。うれしくなって、湊さんにも握手をしてもらった。
ちょうどGW明けの平日で、蝶ヶ岳ヒュッテは工藤さんや湊さんらのロケ隊以外は、私たちを除くとソロで来ていた男性が2、3人。なかなかレアな体験である。
実はこの山行の1週間ほど前、私はテレビ朝日系列の深夜番組にちょっとだけ出演した。その時ちょうど話題だった、億万長者社長との交際が発覚した女優や、よくバラエティーに登場するタレントが私のギャラリーに来てくれたのだが、ほとんど芸能人に興味がない私は、特に握手も写真もねだろうとは思わなかった。それがどうだ。山女日記の主人公と原作者が自分と同じ山に登り、しかも同じ山荘に泊まる。この事実に私は興奮していた。テレビづいている!
つまり私は芸能人には関心はないが、山が絡むとがぜん興味がわくらしい。
山女日記ロケ隊と私たちは、同じコースをちょうど逆に歩いてきたそうで、踏み抜きについて情報交換した。横尾から登っても結局踏み抜き地獄なのは同じらしい。そりゃそうだ。
下山する3日目は天気が崩れ、強風に加え小雨が降り続いた。稜線を抜けて樹林帯に入ると樹が傘代わりになる分、雨も少しはマシになったが、雪の踏み抜きは相変わらずだった。
横尾に着き、さらに徳澤を過ぎる頃には雨が上がって太陽が顔をのぞかせるようになった。疲れたし、なんか甘いものを食べよう、と徳澤園に立ち寄ると、なんと工藤さんと湊さんが座っていた。「どうも~」とにこやかに挨拶をして、少し話をした。山女日記ロケ隊は私たちより早く出発していたので、もうさすがにばったり会うこともないかな、と思っていたけれど、途中のトイレも一緒のタイミングで入り、昼食に岩魚定食を食べようと立ち寄った嘉門次小屋でも出くわした。立ち寄るポイントがそう多くないから当然だが、結構な遭遇率だった。
1か月後、この山行の番組「日本百名山・山女日記」を録画してじっくり鑑賞した。私たちと同じコースだから2泊3日かかっているはずなのだが、30分ほどに編集されていた。踏み抜き地獄についてもほとんど取り上げられておらず、蝶ヶ岳山頂からの穂高連峰の絶景で締めくくられていた。
テレビって、視聴者が知らないカットされる部分がたくさんあるんだなあ、と改めて思う。私と友人、昨日山頂でチューハイを飲んでいるところ、もしかして映ったかも?!なんて盛り上がっていたのに。ちょっとだけ残念である。
蝶ヶ岳(2,677m)/北アルプス
常念山脈の主峰にあたる蝶ヶ岳。5月末から6月にかけて、山肌の一部に黒い蝶が舞うような雪形が現れることから名づけられた。
蝶ヶ岳から蝶ヶ岳ヒュッテにかけての稜線から見る穂高連峰と槍ヶ岳の大展望が魅力。今回歩いた上高地からのコースは徳澤から入るコースと横尾から入るコースがある。
長塀(ながかべ)尾根は樹林帯で辛抱が必要。
≪コースタイム≫
1日目:上高地バスターミナル→徳沢(徳澤園泊)
歩行時間 上高地~涸沢 2時間
歩行距離 7.5km
最大高低差 30m(上高地~徳澤は平坦な道)
2日目:徳沢→長塀山→蝶ヶ岳山頂→蝶ヶ岳ヒュッテ
歩行時間 徳沢~長塀山 3時間40分 長塀山~蝶ヶ岳山頂 2時間40分
歩行距離 8km
最大高低差 1,000m
3日目:蝶ヶ岳ヒュッテ→横尾→徳沢→明神→上高地バスターミナル
歩行時間 蝶ヶ岳ヒュッテ~横尾 2時間半/横尾~上高地 4時間
歩行距離 15km
最大高低差 1,000m
≪アクセス≫
〇マイカー 長野自動車道 松本IC-沢渡駐車場 詳しくはこちら>>>
〇長距離バス 東京新宿-上高地(さわやか信州号)(毎日あるぺん号)
〇電車